わたし色に歪み切った空間~たぬきを添えて~

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生きる事を走る事に例えてうまいこと言ったつもりの文

(以下は私が酔っ払って書いた文章に後から付け加えを施したものです。お目汚し失礼します。)


若い時は『大人の諦め』って嫌ですよね!命燃やして駆け抜けろよって思いますよね!それを彼らに伝えたら「大人になれば君もわかるさ」とか抜かすものだからさあ大変!走り続けるのを諦めた事がよほど恥ずかしいのか、説明すらしないつもりです!困りましたね!

とかく若い時は「走るペースを落とした大人」や「無限に広がる可能性に手を伸ばさずハナから諦めてる大人」ってのに腹が立つものです。

(自分はああはなりたくない)なんてな事も思うでしょう。(今はこんな事を思っていてもいつか自分もあんな大人になってしまうのか?)と不安にもなるかもしれません。

でもそれ!実は「人生が何m走か知らないだけ」なんです!

いいか、人生は視覚を潰されたランニングだ。本当は「レース」と言いたいがそこは別の意味が生じてくるから敢えて「ランニング」と言う。

生まれた瞬間にヨーイドンを切っている。何m走と種目設定されてはいるらしいが(寿命的に)、それが50mなのか100mなのか200mなのか1㎞なのか42.195kmなのか100kmなのかはわからない。でもとにかくスタートは切らされている。


最初は全長が何mか知らないし、それを考慮すべき事とも思ってない。だから若いうちは50m走か100m走かのように走ろうとする。でも何年も生きてると、(あ、これ短距離走じゃないな)って気付く時がある。(このペースでは走り続けられんな)、と。だからペースを落とす。自分が走り続けられるペースに調整する。それによって若い人と年を経た人との間に走るスピードのギャップが生じる。

自分が走るペースが周りの人やかつての自分と比べて相対速度が速いとか遅いとか思うかもしれない。でも世の中には遥かに速く走る人や、はたまた遥かに遅い人がいますから、そのあたりの生きるペースは、走るペースは比べても仕方がないものです。もうそれはそういうものなんですから。たぶん。でも走ってるんだからいいじゃないですか。生きているんだから。それだけで偉いですよ。

時々ハチャメチャなペースで走ってる人が目に入ったりするかもしれませんが、それはその人に合ったペースなんでしょうから自分のと比べても仕方ないですよ。まあそのことがわかってはいても(何で自分のペースはこんなんなんだ…!)って私は思ってしまいますが。

じゃあ疲れに疲れて走りから歩きへ移行し最後には歩くのもやめてしまった人、つまり自殺してしまった人はどうなんだということですが、私はどちらかというと精神的ダークサイドを経験したことがある人なので、その人の判断を否定することはできないなぁと思うわけです。

決して自殺推進ということではないですが、既に自殺した人、これからしようという人、仮にその人が私の身近な人であっても、悲しいので本当にやめてくれとは思いますが、最終的にその人の判断を尊重しなきゃなぁとは思います。残された者は苦しむと思いますが、それもこれも考慮した上で走るのをやめるという決断を人が下すのは、ひ、否定できねぇ・・・・と思います。

以上だよ!!!オチがない

生きることは”旅”だとか”ゲーム”だとか色んなことに例えられるものですが、今回は走ることに例えてうまいことを言ってみました。まあ私全然走ること趣味じゃないし詳しいわけでもないんですけど。

そんなランニングエアプの者の言う事ですからあんまり真剣に受け止めていただかなくても結構ですが、私人生の方はエアプじゃないんでね・・・!若輩者ですが生きているので。人生という同じゲームのプレイヤー同士の意見なんでね。受け止めてくれやな!(突然ガッと肩を組む)

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